声を聞く、物語を聞く -小野和子『あいたくて ききたくて 旅にでる』を読む -

あいたくてききたくて旅に出る

旅をすることは、人と出会うことであり、人と出会うことは声を聞くことであり、声を聞くことは物語を聞くことである。

この本は、仙台の地を拠点に、東北の村々で、約50年近くにわたって民話の採訪を行ってきた小野和子が、その中での出会いをつづった著書で、採訪の方法論だけでなく、物語とは何か、声とは何か、とりわけ、小さな声とは何か、その小さな声をどう聴くことができるのかが書かれている。

小野が民話の採訪を開始したのは、1970年代初め、彼女は三十代半ばだった。岐阜出身で、東京で学んだ小野は、結婚とともに仙台にやってきて、その地で子育てをしていた。民話の採訪を思い立ったのは、子育てのさなかである。縁もゆかりもない仙台の地での民話の採訪を思い立ったのは、何かに突き動かされるようなものだった。

小野は、数々の民話を採訪してきたが、民話との出会い、それは、分からないものだという。訪ねた山深い村の人は、民話を語ってくれる。しかし、その民話の底にあるものが、何かわからない。そこには何かがあるように思える。民話はある定型である。定型であるから、そこには、話し手の心は現れにくい。けれども、その底には、確かに何かがある。その底に、話し手の何かがあるから、その民話は語られる。

「この言葉には、どんな思いが託されていたのだろうか。わたしにはわからなかった。」「しかし、このわからないという思いが、東北の地の人々に話を聞かせてもらうために歩くようになった、わたしの出発点なのかもしれない。」(本書17ページ)

小さな声とは、聞き取るのは難しい。しかし、その声は、隠れている。どこに隠れているのか。それは、定型化した民話の底に隠れている。その声が隠れているから、聞き手は、その民話を聞きたいと思うのだし、その声を隠す懐があるから、民話は、これまで語り継がれてきた。民話とは、その意味で、文化の不要物でも、文化の余剰物でもない。そうではなく、人が生きていく際に、欠くことのできないもの、それがあることで、人が生きてくることができたものである。

民話には、人々の声が隠れているしかし、と同時に、その声は、声とはならないこともある。本書の中には、「石のようになった人」がでてくる。迷い込んだ山里の集落の一軒家にあつまる老婆たち。その中に「石のようになった人」がいた。

 

「この人は苦労がひどかったから、もう口きかなくなったのよ」

「お茶っこ飲みに誘えば、こうして出てくるけど、黙って座っているだけだ」

「んだ、んだ、なんにもいわねぇ。石みだぐなってしまった」

「ほんとう、石みだぐなってしまった……」(本書29ページ)

 

物語の底には、苦労の世界があり、その苦労の世界の底には、さらに物言わぬ世界がある。声を聞くこと、物語を聞くこととは、そのような声にならない声を聞くことでもあるだろう。

 

旅に出る。声を聞く。物語を聞く。それは、聞こえない声を聞くことでもある。

 

小野和子『あいたくて ききたくて 旅にでる』PUMPQUAKES(パンプクエイクス)、2019年刊行