ひとの顔をした持続可能性と地域

寺田さん本紹介3

一年前に、『地域芸能と歩む』の冊子を紹介したが、今度は、おなじ沖縄県立芸術大学から、同名の単行本が届いた。手に持った質感と言い、重量感と言いなんとも素晴らしい本である。

 

背中も開きやすく、また本文紙もめくりやすい。表紙をくるんでいるのは深みのある赤い色の和紙のような柔らかな紙。そこに、別紙で写真が張り込みまれ、藍色のようなブルーのような紫のようなインクでタイトルが箔押しされている。花布もタイトルと同色。オブジェとしての本の側面の細部にまで心が行き届いている。オブジェとしての本の出来栄えがあまりに素晴らしすぎて、読んで開き癖がついたり、表紙の繊細で柔らかな紙がれたり、けば立ったりするのが惜しくて、手に取って読むのを躊躇するくらいだ。構成・ブックデザインは大西隆介(direction Q)。とはいえ、中身も素晴らしいので、開いて読まないわけにもいかない。なんとも悩ましいが、そんな悩ましさもうれしい。座右において長く愛読したい本である。

 

初めのグラビアと終わりのグラビアが素晴らしい。オープニングのグラビアは志鎌康平のもので、エンディングのグラビアは岡本尚文のもの。志鎌のものは、人に焦点を当て、岡本のものは、風景に焦点を当てる。志鎌のものは濃いコントラストでしっかりと人の陰影を伝え、岡本のものはハイキーで浮遊感を味わわせる。この二つの対比は素晴らしい。終わりのグラビアは、ぼくの限られたこれまでの沖縄に関する本の読書経験からしても見たことのない画像ばかりだ。単に少し上空から見ただけの風景とは言えるのだが、その少しの上空の少し加減が絶妙なのだ。ツバメのような上空というか、トンボのような上空というか。決して、飛行機のような上空でもなければ、雲のような上空でもない。上空からの眺めが、こんなに親密なものなのか。こんな沖縄の風景は見たことない。

 

本書は、基本的には、沖縄の地域芸能を考える本なのだが、そこには、沖縄以外の各地の人々の声が入っていることが大きな特徴だ。福岡で編集者として地域にかかわる桜井裕、山形で舞踏家として神楽に参加する佐藤あゆ子、同じく山形に移住し山伏として活動する成瀬正憲……。それが、厚みというか、深みを生み出している。日本は東京一極集中だが、東京を経由することない地域同士の交流というものの豊かさの可能性を知らせてくれるようだ。

 

それらの登場する人々が素晴らしい。どの人も、今、先端的なところで動いている人ばかりである。そのラインナップには目をみはるばかりだ。このプロジェクトを実施している沖縄県立芸術大学の呉屋淳子と向井大策の「キュレーション」によって、出来上がった人々の「星座(コンステレーション)」であるが、その具合がなんとも魅力的だ。ひとの顔を通じて、地域の持続可能性を考えさせてくれる本に仕上がっている。

 

集中には、台湾の人も寄稿している。蔡奕屏(サイ・イーピン)。日本の地域で活動するデザイナーについてまとめた『地方設計』という本を台湾で出版した人だ(果力文化、2021年)。出版後には、アジア各地で反響があり、マレーシアの新聞で紹介されたり、香港から講演会の招待があったそうだ。そういえば、牧志市場の極小古書店「ウララ」の宇田智子が書いた『那覇の市場で古本屋』(ボーダーインク、2014年)の中にも、書籍の刊行やデザインを通じた中国との交流の話が出てくる。沖縄のアジア地域に開かれた側面が出ているようだ。

 

『ノレ・ノスタルギーヤ』(岩波書店、2003年)の著者である姜信子も登場している。「ノレ・ノスタルギーヤ」とは彼女の造語で、ノレとは、韓国朝鮮語で「歌」を意味し、「ノスタルギーヤ」はロシア語で、「故郷を歌う唄」を意味する。歌を通じた記憶の発掘のプロジェクトである。地域芸能の中で歌が占める位置は大きい。独特の感性でアジア大陸の各地の歌を繋げる彼女の寄稿はこころに静かに語りかける。

 

菅啓次郎が、ミュージシャンの照屋林賢を訪問した記事もある。その中に、照屋がプロデュースしている女性民謡ボーカル・ユニットである「ティンクティンク」のメンバーが皆、自作の曲を持っているという記述があった。一見アイドル・グループに見える彼女たちだが、実は琉球ペンタトニック(五音音階)による自作の曲を自ら三線(サンシン)を持って歌っているのだ。また、照屋自身も、活動を支えるためにホテルとライブハウスを経営しているという記述もあった。経済活動にかかわるとてもプラクティカルな側面であるが、そのようなプラクティカルな物質的基盤条件が、地域で芸能の実践をしていくことを支えている。そこに、「持続可能性」とは何かを考えるヒントがあるように思う。そのような、ほかの書き手はあまり書きそうもない事実を書き留めた菅の慧眼には学ぶところが大きい。

 

詩人の金時鐘の名前も登場する。アーティストの坂田清子の寄稿の中である。金は、神戸、大阪で活動する詩人だが、韓国で戦後の1948年に起きた「4・3済州島事件」を青年期に体験し、日本に密航、その後ずっとその事件に沈黙を守ってきた詩人である。この事件は、島民を政府軍や警察が反政府的として虐殺した事件で、光州事件と同じ構図を持つ白色テロである。そのような金の名前が登場することで、本書が台湾、沖縄、済州島をつなぐ記憶の書でもあるような感を持った。数年前に死去した道場親信が、東アジアの戦後を考えるには、台湾、沖縄、済州島という地域からアジアを見る必要を説いていたのを思い出す(道場親信『抵抗の同時代史――軍事化とネオリベラリズムに抗して』人文書院、2008年)。本土では、「地域」というと、どちらかというとニュートラルな印象を持つ語だが、一方で、この語には、アメリカ(アメリカ帝国主義)の戦略に資すための「Area Studies」に見られるような「地域」という側面もある。金の名が登場することで、そのことを忘れてはならないという楔のようなものが打ち込まれている気がした。

 

今回の本を読んで改めて思ったのは、未来や持続可能性は、ひとが作るということ。ひとの創造的なかかわりが、地域の未来や持続可能性を作る。その際に重要となるのが、キーとなるひと。そんなひとは、しかし、つねにいて、つねにどこかで活動している。そんなひとを繋げ、紹介することで、そのカギとなるひとの活動や取り組みは、また次の新しい何かを生み出す。ひととひとのつながりとそれをうみだすもの、そのその大切さを感じた。

 

そのようなことを目に見えるようにした呉屋淳子と向井大策のふたりの「キュレーション」は素晴らしい。ぜひ、せっかくのこの蓄積を生して、沖縄県立芸術大学は「地域芸能と持続可能性」に関するセンターを恒久的に設置してはどうだろうか。きっと素晴らしいセンターになるだろう。

 

呉屋淳子、向井大策(編)『地域芸能と歩む』沖縄県立芸術大学、2022年。