木とともに生きる人
ポストを開けると、ちいさな紙片が入っていることがある。もちろん、それは封筒に入っているのだが、その封筒の封を切ると出てくるのは、二つ折りの招待状のような往復はがきよりも一回り大きいくらいの小さな栞。『木々の風景』と題された、エマニュエル・マレスが編集している通信だ。わずか4ページだけれども、紙の質やデザインなど考え抜かれて、時間をかけて丁寧に作られたことがわかる冊子である。
この通信は、木工家の山本有三の言葉を集めたものだ。その言葉たちに、山本をめぐる木の風景の写真が添えられている。木工家とは、木とともに生きる人だ。普段、木とともに生きる人の言葉を聞くことはあまりない。そういう意味ではとても貴重なドキュメントだ。
そこに横溢しているのは、しずけさというような感じ。描かれるのは、たき火の風景だったり、木の市場――この小冊子で初めて知ったが、そういうものがあるのだそうだ。魚や野菜と同じように、木にもセリ市がある。とはいえ、その風景は、もっと静かでのんびりとしたようなもののようだから、同じセリ市といっても感じはかなり違う――だったりするが、その底に流れているのは、静謐にゆっくりと動いている何かだ。
「木々は本来木々であって、それ以上でもそれ以下でもない。ただ人間の手にかかるとその都度その都度名前が付けられる。木々は大地に根を張り、葉をつけ、花を咲かせ、実をつけ、大地に種を落とす。丸太は根を切られ、枝を切られ、規格の長さに切られた木。板は丸太を縦に分割して、裸にされた状態。人間は木々を勉強し、板のもつ能力や魅力を長い年月をかけて少しずつ引き出してきた。」(山本有三「木の誤算~今日」『木々の風景』vol.2、2019年)
その静けさはどこから来ているのだろうか。もしかしたら、木とともに生きる人というのは、そういうたたずまいを持っているのかもしれない。
そういえば、フランスの庭師ジル・クレマンと日本の庭師田瀬理夫が対談する場に居合わせたことがある。ジル・クレマンが初来日した時のことだ。
ジル・クレマンは、パリのケ・ブランリー美術館の庭園やアンドレ・シトロエン公園をつくった人。田瀬理夫はアクロス福岡や百合丘ビレッジの庭園をつくった人。どちらも、その国を代表する庭園アーキテクトであり、現代を代表する庭づくりの専門家だ。
けれども、二人とも、それほど高名なのに、まったく偉ぶるところがなかった。いや、偉ぶるところがない、というか、ごく普通の人だった。ここでいう普通の人というのは、素のままであり、対面した誰とも一対一で話す人ということである。自分のまわりに、上下関係の醸し出す臭いや、オーラのようなものをまとおうとしない人とでもいおうか。世の中には、そういうものを分厚く着用している人もいる。そういう人は、それによってある種の力を自身から発しようとする。その力とは、人を動かす力や、人に影響力を与える力、そしてそれの誇示のようなものだが、二人にはそういうものが全くなかった。
それは、とても気持ちよかった。どうしてなんでしょうか。田瀬にそう聞いてみた。
田瀬は笑って、ああ、それは、もしかしたら植物を相手にしているからからかもしれません、と言った。植物とは思い通りになりませんからね。そして、待たなければなりませんから。
そういえば、ジル・クレマンの著書の『動いている庭』も、庭について書かれた本だが、そこに書かれている庭とは、庭師が庭を操作して、つまり庭師が木を移植し、種を植え付けて作られた庭ではない。というよりも、この本は、植物の種や根の動き、あるいは遷移によって庭の様相が変わりゆくことそのものを受け入れ、そこにわずかの人為を付け加えることで成り立つ庭の原理を説いた本だった。
木はゆっくりと成長し、木は動かない。しかし、木は生きている。
木は、石や鉄以前に、人間にとって最も親しみの深い道具であったろう。木と付き合うことには、太古からの人間の知恵が詰まっている。木とともに生きる人の言葉の底に、しずかでゆっくりとした何かが流れているのは、そこから来ているのかもしれない。
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『木々の風景』企画編集:エマニュエル・マレス、UcB工房発行、2019年~。
ジル・クレマン(山内朋樹訳)『動いている庭』みすず書房、2015年