【自著を語る】寺田匡宏『人は火山に何を見るのか』  ~地球環境の新たな語り方を求めて - 科学・人間・世界観 -

 

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地球環境をどう語ればよいのかを考える中で、書いた本である。2015年に京都の昭和堂という出版社から出版された。

このころ、環境をどのように新しいアクチュアルな切り口から語ることができるかをさがしていた。本書は、結果として書評集となった。書評集であって、これは「論」ではない。その時点では、ぼくの中では、まだ「論」ではなかった。だが、「論」になりつつあるものがどこかしらに見えてはいた。それを、さまざまな書物を読むことで、あるいは、さまざまな書物の力を借りることで、何とか見出したいというのがこの本の基本となるモチーフである。

 

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書物を通じたつながりの中にそれがあるかもしれない、と気づいたのは、ベルリンで行われた「人新世(アンソロポシーン)キャンパス」という集まりに参加した時のことだ。

この集まりは、ドイツの「世界文化会館(Haus der Kulturen der Welt、略称HKW)」という文化機関と、マックスプランク科学史研究所が主催した集まりで、若手研究者と若手アーティストが、当時少しずつ議論がグローバル化しつつあった「人新世」をめぐって論じるというものだ。100人を超える参加者がベルリンの一角で1週間寝食を共にし、ディスカッションを交わした。

 

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HKWがどのようなところかを一言でいうのは難しいが、フランスでいうとポンピドゥー・センターのようなところ、日本でいうと「せんだいメディアテーク」のような感じ、あるいは京都でいうと京都市芸術センターとロームシアターを混ぜて2で割ってさらに2倍くらい規模を大きくしたようなところとでも言えばよいだろうか。

公共の中における学術と芸術の役割を問い直し、あたらしい文化領域を作ろうという進取の気質と意欲と野心と機運に満ちた風通しの良い場であり組織である。マックスプランク科学史研究所の方もおなじような進取の気質を持つ。この二つが組むことで何か新しいものが生まれているという感じがあった。

 

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このキャンパスでのさまざまな出会いと、そして、そこでの書物との出会いが、地球環境を新しい語り口で語れるかもしれないと思わせてくれた。

 

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HKWの建物は大きなギャラリーのようでもあり、「キャンパス」は、その建物内の様々なたたずまいの部屋や廊下や展示室を舞台とした。

「キャンパス」はフォーラムでもあった。フォーラムとは、誰にでも開かれた場である。そのような場で地球の未来を論じようというのが「人新世(アンソロポシーン)キャンパス」の基本となる姿勢である。

「キャンパス」には「ライブラリー(図書館)」もあった。もちろん、キャンパスと言っても時間限定であるから、恒久的なライブラリーではない。しかし、書物が集められたブックコーナーがあり、そこには関連図書が集められたちょっとした群島が出現していた。

 

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その選書が絶妙だったのだ。ダナ・ハラウェイのとなりに、H・G・ウェルズがあり、その隣にジョルジュ・アガンベンがある。

「あ、なるほど、こういうふうに環境を語ることができるのだ」という思いがあった。

ダナ・ハラウェイは人間とサイボーグの間や、人間と動物の間を問うことで、科学時代の人間の在り方を問うアメリカの科学論研究者である。『サイボーグ・フェミニズム』や『犬と人が出会うとき――異種協働のポリティクス』などが日本語に翻訳されている。H・G・ウェルズは火星人が攻めてくるという『世界大戦争』で有名なイギリスの作家だが、『タイムマシン』や動物の知性を問う『モロー博士の島』などを書いている。ジョルジュ・アガンベンは、カトリック神学をベースにした現代哲学者。その著『開かれ』では、ハイデガーと「環世界論」のユクスキュルが大きな位置を占める。

 

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ハラウェイと、ウェルズと、アガンベン。そのような組み合わせで地球環境を語る語り方は見たことがなかった。だが、そういう組み合わせはたしかにある。「選書の妙」である。それは、地球システム学と人文学の融合といってもよい。いや、融合というよりも、それは、お互いがお互いの存在を知悉したうえで、それぞれの学問を変容させていくことである。

 

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アメリカの哲学者のヒラリー・パトナムは哲学を含む現代のあらゆる学の基礎には、科学があることを繰り返し説く。科学の世界観は最も基礎となる世界観である。世界は科学の法則によって説明される。その科学の世界観の中で、人文学である哲学がどのようにそれと矛盾しない体系を作れるかをパトナムは考える(Hilary Putnam『科学の時代の哲学:物理学・数学・懐疑論Philosophy in the Age of Science: Physics, Mathematics, and Skepticism』Harvard University Press, 2012.)。

科学と人文学は決して別個なものではない。地球環境学とは、人間と地球の関係の学であるが、それは同時に、科学と人間の関係の学でもあり、科学と人間の間の問われ方がもっともしっかりした形で目に見える領域である。それは世界観の構築の問題である。そんなことに気づいたのだ。

 

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この本の中では、いくつかのトピックを提示した。語りの問題、歴史の問題、災厄の問題、そして知のあり方の問題。

それらについて、回答を与えるというよりも、むしろ問題のありかを確認するというようなつもりで編んだ。

どれも人文の問いではあろう。しかし、それらは同時に、地球環境とも大きなつながりを持っている。たとえば、森の人々の語りをどうとらえればよいのか、地球46億年の歴史と人間の数千年の歴史の関係をどう考えればよいのか、地球の震えにしか過ぎない地震や火山や津波といった自然現象を「災害」であり「災厄」であるととらえることとはどういうことか、そして、そんな風にそれらを問うこととはどのような意味を持つのか。この本の中では、こういった事柄を、様々な書物を通じて考えてみようとしたものだ。鶴見和子、グレゴリー・ベイトソン、菅原和孝、木村敏、藤井貞和・・・そんな人々の言葉を手掛かりに考えようとした。

 

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それは、「読むこと」を通じてつながるということでもあった。この本のあとがきに、須賀敦子の『コルシア書店の仲間たち』のことを書いた。『コルシア書店の仲間たち』は、須賀敦子が、イタリアにわたり、コルシア書店という本を通じた共同体づくりの場に参加していた時のことを書いた記憶の書だ。書物を通じたつながりは、言語も国境も超える。須賀の著は、それを教える。この本を書きながら、ぼくもそれを実感していた。

 

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「本は、本であって本でない。

それは、場所だ。

本とは、誰かとつながっている場所のことだ。」(『人は火山に何を見るのか』196ページ)

 

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幸いにして、この本は、つながりの場所となっているようである。

出版後、「朝日新聞」の書評に取り上げられた。取り上げてくれたのは、科学論の佐倉統。佐倉は、霊長類学から発して、科学論・情報学へと転身した研究者である。地球環境学への造詣も深い。そのような人が書評という形で、読者へのつながりを開いてくれたことは素直にうれしい。

また、この本の中の水俣のメモリアルについての箇所が、入試問題に取り上げられたりもした(東京造形大学2020年度入学試験)。入試問題に取り上げられたということは、この本を読んで、それをそのようにしてくれた人がいたということだ。それが誰かはわからない。けれども、しっかりと読んでくれた人がいる、そして、入学試験の場という形で、それを新しい読者につなげてくれた人がいるということに心からありがたいと思う。

 

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カバーに用いたのは、ジョセフィン・キャラハンJosephine Callaghanの「ダーマル・プロジェクト」という作品。

キャラハンとは、ぼくが、以前、ロンドンに短期間住んでいた時に、知り合い、その後、時々連絡を取ったりしていた。イギリスのアーティストらしく、予測不可能な作品を作る人だが、この作品もその一つ。アメリカのタフツ大学の生物化学に関する研究室で彼女がアーティスト・イン・レジデンスとして滞在していた時に生まれた作品だ。真皮組織に金を加えることによってできた、バイオ・ミメティックな素材を捉えた作品である。これは、生物なのか、それとも非生物なのか。科学と生命は思いもかけない結合の仕方をしている。それを考えることも地球環境学の課題であろう。

 

寺田匡宏『人は火山に何を見るのか――環境と記憶/歴史』昭和堂、2015年