“生命式”が奇妙でグロテスクというならば、スーパーマーケットの棚に牛肉や豚肉や鶏肉がずらりと並んでいる方がもっと奇妙でグロテスクだ ――村田沙耶香『生命式』を読む

寺田さん本の紹介20220620

小説の面白さの一つは、今この時点で、ありえそうでありえない世界や、現在はありえないけれども、未来にはありえそうな世界を描くことであろう。もちろん、小説の世界とは、現実の世界ではない。仮にその小説がリアリズム小説であったとしても、そのリアリズム小説の中に入ることはできないから、あらゆる小説は、ありえそうでありえない世界を描いているともいえる。だが、とはいえ、リアリズム小説が、現在の世界のあり方を、言ってみれば、そのまま映して書こうとするのに対して、そのようにではなく、現在の世界と似てはいるが、少しそれとは違う世界を描く小説がある。そのような小説においては、現実の世界と小説の中の世界の間に、微細な差異があることによって、小説を読む楽しみが生まれる。もちろん、虚構と現実の間に差異があること自体は、芸術や創造的行為一般に言えることである。それは、人間が、言語を持ったことによって、思考の中の世界という、現実とは別の世界を持つことによって得ることになった快楽の一つだ。

 

村田紗耶香は、そのような、小説の世界と現実の世界との間にある差異を意識的に作り出し、そのことによって、多くのことを考えさせる作家の一人だ。彼女は、『コンビニ人間』で芥川賞を受けたが、そこに見られるように、あくまでリアリズム的な立ち位置を装いながら、そのリアリズムに少しのひねりを加えることにより、ありえそうでありえない世界を絶妙の形で作り出す。この「生命式」は、その村田の技法が炸裂した作品だ。2020年ごろだったと思うが、雑誌『ダヴィンチ』のインタビューで、村田は、この作品を書いたことで「自分のやりたいことはこれだったとわかった」と語っていたのを覚えている。おそらく、小説家本人にとっても、この「生命式」という作品は会心の作品であったと思われる。

 

さて、この本のタイトルになっている“生命式”だが、“生命式”とは何か。聞きなれない言葉だが、これは、この小説の中の世界ではごく当たり前に用いられている言葉である。この言葉が用いられるのが当たり前の世界を作り出したことで、村田は読者を新しい世界に連れ出す。

 

生命式とは何か。この「式」とは、「空冷式」や「振り子式」、「ねじ式」などの語に用いられている「式」、つまり、方式を示す語の「式」ではない。「卒業式」、「入学式」、「結婚式」などの語に用いられている「式」、つまり儀礼であり、制度であるところの「式」である。では、その儀式であるところの「生命式」とは何か。卒業式とは卒業のための式であり、入学式とは入学のための式であり、結婚式とは結婚のための式である。とするならば、生命式とは、生命のための式であることになる。だが、生命のための式とは、一体、何か。

 

村田のこの小説は、「私」が、会社の会議室で同僚の女の子たちとお昼のお弁当を食べているシーンから始まる。その時、話されていたのは、昔、総務課にいて、少し前に定年退職した中尾さんのこと。「私」は、後輩の女の子に、中尾さんが亡くなったことを聞かされる。同僚の女の子たちの会話の中では、その亡くなった中尾さんの生命式に行くのかどうかが話題になっている。

「池谷さんも行くでしょ? 生命式」

「あーうん、どうしようかなあ」(本書10ページ)

 

生命式、というのは、どうやら、お葬式の代わりに行われるような儀式らしい。同じ課で仕事をしていた人が、定年後に亡くなったとして、そのお葬式に行くことは、それほど珍しいことでもないだろう。だが、しかし、その会話は次のような異様な会話に続いていく。

 

「中尾さん、美味しいかなあ」

「ちょっと固そうじゃない? 細いし、筋肉質だし」

「私、前に中尾さんくらいの体形の男の人たべたことあるけど、けっこうおいしかったよ。少し筋張ってるけど、舌触りはまろやかっていうか」

「そっかあ。男の人のほうが、いい出汁がでるっていうしね」(本書10ページ)

 

この会話は何であろうか。ここで語られているのは、亡くなった人を食べるということなのだが、生命式とは、そのような式である。「私」の回想によれば、30年前はそうではなかったのだが、この30年間で少子高齢化が進んだことで、人類が滅びる可能性が高まり、その結果、人口増加が至上の命題になってきた。人口増加のためには、死と生をうまくつなげる必要がある。その結果、生まれたのが生命式である。生命のための式とは、生命に必要なことを行う式である。生命に必要なものとは何か。それは、生と死である。生と死がなければ生命は存在しない。生と死を繋げる式とはどういう式か。その式では、死者を食することが行われる。そうして、その死者を食する場において、「死んだ人間を食べながら受精相手を探し、相手を見つけたら二人で退場してどこかで受精を行う」(本書12-13ページ)。そうすれば、死と生は円環し、仮に、一人の死者が生じたとしても、その一人の死者の生命式で複数の受精が行われたとしたならば、トータルで見れば、人口は増加する。

 

亡くなった人の体は、業者の手を借りたり、親族みずからの手によったりして解体され、生命式での食に供されることになる。人肉は癖が強いので、味噌仕立ての鍋にされることが多いという。中原さんの生命式も白みその混じった濃厚な赤みそ仕立ての鍋だった。解体された中尾さんの肉は、鍋に仕立てられ、奥さんの給仕によって、その生命式にやって来た若い男女たちにふるまわれた。「私」は会社の同僚であり、喫煙所友達の男性の「山本」と、中原さんの生命式に出た。とはいえ、「私」も「山本」も、どちらかというと「人肉は食べたくない派」だったので、鍋の中の白菜やその他の野菜をもっぱら食べ、だし汁を味わうことに専念していた。

 

30年前の世界を経験していた「私」からすると、人肉を喜んで食べる世界は「私」にはやはり違和感があった。30年前の世界から見ると、いくら少子化から人類を救う手段であるとはいえ、人肉を喜んで食べている私たちは、狂っているとしか見えないだろう。中尾さんの生命式に出た数日後、居酒屋に山本を誘った「私」は、そんな風に、山本に議論を吹っ掛ける。

 

「真面目な話さあ。世界ってだな。常識とか、本能とか、倫理とか、確固たるものみたいにみんな言うけどさ。実際には変容していくもんだと思うよ。お前が感じてるみたいにここ最近いきなりの話じゃなくてさ。ずっと昔から、変容しつづけてきたんだよ。……俺はさー。今の世界、悪くないって思うよ。」(本書23-25ページ)

 

山本にこう諭され、「私」は、そんなものかと思いつつも、どこかで、そんな風に変容し続ける世界に違和感を感じて、割り切れない思いを抱えていた。山本は、ばかだなあ、と笑い、「私」の背中をその大きな手でトントンとたたき、「私」は、いつの間にかなんだか安心感を感じることになる。

 

そんな山本が死んだという一報を、「私」が受けたのはその週末だった。事故だったという。人が死んだならば、その生命式が行われなくてはならない。「私」は、山本の生命式の手伝いをするために、山本が住んでいたワンルーム・マンションに行く。もうそこには、山本の母親と山本の妹がいて、解体された山本の肉の下ごしらえをしていた。業者は、ざっとした処理はしてくれるが、細かな調理まではしてくれない。凝り性だった山本は、自分が死んだ時に備えて、自分の肉がどのように生命式に供されるべきかのレシピを残していた。山本の母も妹も、山本の意思をなるべく尊重するように、せっせと下ごしらえをしていたのだ。山本は、「俺のカシューナッツ炒め」と「俺の肉団子のみぞれ鍋」、「俺の角煮」を望んでいた。「私」は、山本の母と妹と力を合わせて、解体された山本の腕や下肢の骨から肉を外し、それをミキサーにかけたり、薄くそいだりして、なんとか調理をし、生命式に間に合わせる。生命式が始まると、山本を愛した人々が集まり、山本を食べた。

 

「山本を愛していた人たちが、山本を食べて、山本の命をエネルギーに、新しい命を作りに行く。「生命式」という式が初めて素晴らしく思えた。私は、夢中で、山本を食べたり、台所から追加の山本を持ってきたりと目まぐるしく動き回った。」(本書39ページ)

 

生命式というものに懐疑的だった「私」は、この山本の生命式に主体的に参加することで、高揚感を得、それにより、生命式への抵抗感もなくなったのである。

 

生命式の宴が果て、「私」は、山本の家を辞す。家を辞したものの、「私」の体の中はほてった感じがしていたので、なんだか、このまま家に帰るのも惜しい気がして、「私」は、夜の海に行く。この海のシーンが、この小説のラストシーンである。夜の海を一人見つめる「私」。その暗闇には、山本がたんぽぽの綿毛となって世界に拡散しているような気がしていた。「私」は、そこで、生命式の後、山本の妹がタッパーに入れてくれた「山本の角煮入りのおにぎり」をほおばりながらぼーっと海を眺める。本当ならば、そこで男女が受精行為を行うのが、生命式の後のまっとうな流れである。たしかに、「私」はそこで出会った若い男と、そのまま受精行為を行いそうにはなったのだが、その男はゲイだったので、直接的な受精行為には至らなかった。ゲイの若い男は、星砂を入れていた小瓶に入った液体を「私」に渡す。それを持って海に入って行った「私」は、膝まで海に浸かり、ゲイであるその男と間接的な受精行為をする。ふと、その海を見ると、その海には、たくさんの無数の受精行為をする人影のようなものが海藻のように揺らめいているのが見えた。その中で、海に、からだを浸しながら、「私」は、生まれて初めて、変わり続ける世界の中の変わらぬものに参加した気持ちがして、目を閉じて立ち尽くしていた。

 

この最後のシーンは、日本近代文学をジェンダーの視点から逆転させたシーンでもあるだろう。日本の近代文学の中で、社会的あるいは人間関係の葛藤からの解放が自然との合一により果たされるというモチーフといえば、志賀直哉の『暗夜行路』のラストシーンが代表的である。それは、主人公である時任謙作が大山に登り、その夜明けを迎えるというシーンであった。自然との合一が、屹立する山という男性的なシンボルで表現されていたのである。山が自然として表現されるのは、近代ドイツのロマン主義のカスパー・ダヴィド・フリードリヒの「雲海上の旅人」の絵画でも同様であろう。そこには、男性中心主義的な視点がある。しかし、この村田の小説のラストシーンでは、海という女性を象徴するものとの合一により、生命という永遠と「私」が一体化することが暗示され、主人公の問題の解決がはかられている。ジェンダー視点が変わることによって、自然の表現そのものが変わるのである。

 

さて、この小説が語り掛けるものは何だろうか。一つは、生と死の問題であるが、それに加えて、性というものが生と死と関係するという根源的な問題であろう。生き物の、始まりを生とし、終わりを死とするならば、その中間領域に存在するのが性の問題である。性を通じて、生き物は、個体としては死滅するが、種としては永続するという変則的な持続性を獲得する。この小説の中では、その性に対するアンビバレンツな感情が描かれている。「私」は、生命式に積極的に参加したり、人肉を食べることを躊躇すると同時に、その生命式の後に、あたかも自然であるかのように行われる受精行為にも躊躇する心性を持っている。それは、性へのためらいの心性でもあろう。ラストシーンの「受精行為」も、直接的な行為ではなく、間接的な行為である。そのような態度は、人口減少による人類の危機が迫っているときには、喫緊の課題からの逃走であるともいえるかもしれないし、あるいは、「まっとうな」性の在り方を前提とした社会から見ると偏向しているものに見えるかもしれない。しかし、性の在り方とは、生物界において多様なものであって、性を持たない生物も多い。生命が永続性を獲得するためには、多様性が必要となり、その多様性の確保には、減数分裂が有効に機能する。性とは、この減数分裂から生じる現象だ。減数分裂により半減した染色体は、配偶子の結合によって元に戻る。だが、その際に、異性を必要としない生物も存在する。たとえば、シダ植物などのように、世代間の生命の継承に、性を必要としない生き物もある。性の在り方は、必ずしも、異なった性を必要とするわけではない。生命が持続性を本質とするのに、多様な在り方がある。人間が行っている、男女による受精行為という性は、必ずしも絶対的なものではなく、ある変容の中の断面である。

 

もう一つは、異常と正常の問題である。「私」は、子どものころには、「人肉を食べない社会」であったのが、わずか30年で「人肉を食べる社会」になってしまったという激変を経験したことで、「生命式」のある「現在」の社会になじめない感じがしている。その「私」の違和感とは、小説を読んでいる読者の違和感であろう。小説の外部にいて、小説の世界の中を覗き込んでいる読者にとっては、「生命式」のある世界はあまりに異様に見える。そこでは、死者の身体を構成していた肉が、まるで、牛肉や豚肉や鶏肉のように、調理されているのだ。しかし、はたして、その小説の中の「生命式がある世界」を覗き込んでいる読者である私たちのいる世界は、それほど正常なのだろうか。たしかに、私たちの世界では、人肉は食べない。けれども、人肉を食べないというこの社会だって、十分に異常ではないのだろうか。スーパーマーケットに行けば、そこには、牛肉や、豚肉や、鶏肉が、きれいに切り分けられ、それが映えるように照明を当てられ、ずらりと並んでいる。それは、もっと異様で、奇妙でグロテスクではないのだろうか。それは、ずいぶんな奇習ではないのか。生命を食べて声明を維持している私たちとはいったい何か。その「正常」な姿とは何か。この小説は、そんなことを考えさせる。

 

 

村田沙耶香『生命式』2019年、河出書房新社