海底のクオリアと持続可能性/イノベーション ――高橋そよ『沖縄・素潜り漁師の社会誌』を読む

沖縄・素潜り漁師の社会誌

ある分野を知悉した人がその分野の中でふるまう振る舞い方は、その分野以外の人から見ると驚異的に見える。音楽家が楽器を奏でる姿は、楽器を奏でない人にとっては驚き以外の何物でもないし、スポーツ選手の身体技能は、そのスポーツをしない人にとっては謎めいて見える。そのような専門家の振る舞いの鍵は、身体と外界との関係、その人の中に埋め込まれた経験と外界の感知の仕方にある。そのような感知を支えるのが、外界の質であり、それはクオリアと呼ばれる。クオリアとは、外界のあらゆるデータであり、微細でありかつ膨大な情報の集積だ。

 

自然の中で生き、自然の中から資源を引き出す人の技法も、そのようなクオリアに支えられた身体技法のひとつである。高橋そよの『沖縄・素潜り漁師の社会誌』は、それを沖縄宮古諸島の中の伊良部島の素潜り漁師の世界を通じて描き出した書である。人類学研究者の高橋は、伊良部に十数年通い、素潜り漁師に弟子入りして、その漁師たちが海の中で行っていることは何かを明らかにした。

 

沖縄の海は、サンゴ礁に囲まれており、複雑な海底地形と潮の流れを持つ。そのような複雑な海底地形には、その場所に即した生物が生息し、漁をするためには、海底の地形、風の流れ、潮の流れ、魚の生態や習性を知悉していることが必要となる。海底の地形は比較的不変な要素ではあるが、潮の動きは地球と月の関係という宇宙の変数であり、風の流れは地球上の大気のグローバルな変動とも関係するという惑星の変数である。そのような宇宙と地球システムの中にある海という環境の中に身を置き、自らの身体を通じてクオリアのデータを蓄積し、そのデータを用いて魚介を捕獲する。魚介も魚介としてのクオリアにもとづいて行動しているわけだから、素潜り漁とは二つのクオリア認知の出会いでもあるだろう。高橋は、自らの海底での経験と、素潜り漁師たちの海底での振る舞いの観察、更には、彼らにメンタルマップを書いてもらうことで、彼らの精神の中に、どのように海底のクオリアが再現されているかを描き出す。

 

確かに、素潜り漁師のクオリアの認知は驚異的である。一般に人にとっては、わかりもしない海底の微細な機微を彼らはしっかりと覚えているし、魚の生態の微細な違いは魚の方言名となって表現される。そのことに驚嘆させられると同時に、それは人間に普遍的なものであることにも気づかされる。風であり、場所であり、動物であり、植物であり、様々な自然物に名前がついているのは、まさに、人間のクオリア認知の集積ではないのか。人間は、環境のクオリアを認知し、それと共に生きてきた。いま、デジタル社会において、デジタルネイティブの世代は、デジタルの空間の中を自由に動き回っているように見える。とするなら、彼らももしかしたら、そのデジタル空間の中にあるクオリアを感知しているのかもしれない。素潜り漁師のクオリアと、ネット社会で生きる若者がネットの中を自由に泳ぎ回るクオリアはもしかしたら同じかもしれない。本書の微細な海底のクオリアの記述は、そんなことを考えさせる。

 

もう一つ、この本が考えさせるのは、持続可能性とイノベーションの問題だ。高橋は素潜り漁師たちへの詳細な聞き取りから、彼らがどのように獲れた魚を販売しているかを明らかにする。資源が資源であるためには、それを使用価値に変換する必要があり、そのためには、魚を販売する必要がある。

 

漁師たちが港に帰ってからおこなう行為に目を凝らした高橋はそこで、仲買という独特のシステムがあることで、リスクヘッジと過度な競争が避けられていることを見出す。素潜り漁師たちは、セリという形で採れた魚を貨幣には変換していない。彼らが採用しているのは、仲買方式である。特定の仲買と継続的な関係を持ち、その仲買に獲ってきた魚を全て委ねる。

 

セリではなく仲買という方式をとることで、全量が買い取られることが保証されている代わりに、価格の決定権は仲買にある。もちろん、仲買は買いたたくことはしないが、しかし、漁師が値を吊り上げることもできない。特定の仲買と漁師の結びつきは、不漁の際でもある程度の値段で魚を貨幣に変えることを可能にする。あるいは、漁師と仲買の関係は、資金不足の際の前借などを可能にしたりもする。

 

しかし、一方でそのような取引形態は、セリと違って魚の貨幣価値への変換の上限を一定程度に抑えることになってしまい、高額な収入は見込めない。素潜り漁は、身体に依存した漁法なので、魚をその身体の限界以上にとることはできないので、魚という資源の持続可能性に貢献している。そして、仲買を通じた販売という縛りがあることで、より多くの漁獲量を目指すというインセンティブが抑えられることで、更に、それは魚という資源の持続可能性を担保する。

 

だが、高橋が言うように、そのような関係は「人びとのある程度の行動抑制と努力の上に成り立っている」(本書233ページ)。お互いがお互いを縛っているという側面もあるであろうし、「出る杭を打つ」という側面もあるかもしれない。続けて高橋は、それを「島という限られた社会空間で生きる人々の社会的衝突を避けるための」方法であるともいう。先ほどの出る杭の比喩でいうと、出る杭とはイノベーションである。島という限られた社会空間の外に目を移すと、そこではイノベーションが求められる社会が広がっているともいえるだろう。そこでいうイノベーションとは、漁業の場合、より多くの漁獲を意味するだろうし、より高額な単価での取引を意味するでもあろう。島の外と内との間には、ジレンマがある。いや、そのジレンマは、現在、地球上における持続可能性をめぐるジレンマでもある。イノベーションがなければ、成長はないが、成長があれば、持続可能性は脅かされる。それを両立する方法はあるのか。高橋に聞いてみたいことの一つである。

 

高橋そよ『沖縄・素潜り漁師の社会誌――サンゴ礁資源利用と島嶼コミュニティの生存基盤』コモンズ、2018年。