私見、ベトナムのこと、ベトナム語のこと ④
ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が長くなっています。1日も早くウクライナにこれまでの日常が戻ってくることを願っています。そして、ロシアとウクライナの状況を見ていて、この軍事侵攻の影響が長く残らないことも願っています。
ベトナムは長い間、国土が戦場になった経験をもっています。それも国土を南北に二分して、戦っていた歴史があります。結果は北側、現在のベトナム共産党の前身になった側が勝利しました。終戦は1975年です。私がベトナムで暮らしていたのは、2007年からでした。つまり、終戦から30年ちょっと経ったころです。それでも、戦争の残したことをたくさん見聞きしました。
ここから先に書くことをベトナム人によっては否定するかもしれません。ただ、私が見聞きした事実であることに間違いはありません。
1975年にあなたの親族は何をしていましたか?
青年海外協力隊員(以下、協力隊員)だった私の少しだけ先輩から見せてもらった写真がありました。それは、就職のときに提出する履歴書でした。その先輩は首都ハノイ(北側)に近い省にある公的機関で活動をしていました。履歴書の項目の中に「1975年にあなたの親族はどこに住んで何をしていたか」と書く欄が設けられていました。戦争に負けた南側に属していた地区に暮らしていた場合、採用されることはない、と聞きました。
北側からの移住者
別の協力隊員の先輩は、南側、現在のホーチミン市のお隣にある省の学校で活動していました。この省の行政幹部たちのほぼ全員が、北側から派遣された人たちやその家族でした。彼女の学校の校長先生も1980年代にハノイから家族で移住してきた人でした。教育の上の方に立つ人たちの多くは、北側の移住者で構成されていました。
実際に私がフィールドで出会った村の幹部たちの中にも、ハノイ近郊の省から移住してきたという人たちが何人もいました。私たちのフィールド、フエ省は南側に属していた場所です。ただし、実際にはモザイクのように北を支援していた人、南を支援していた人がいたように感じています。
「2度と祖国に帰らない」という強い決意
フエで知り合いになったアメリカ人の英語の先生、Cさん。Cさんの母親はフエ市郊外の村の出身でした。ベトナム戦争の際、Cさんの母親の暮らした村は、北側の兵士たちに攻撃されて村のすべてが焼き払われたといいます。数名の生き残りの中に、Cさんの母親はいました。終戦後、アメリカに逃れたのちにアメリカ人と結婚して生まれたのがCさんでした。母親はベトナムのことを一切Cさんに教えることはありませんでした。それは「2度と祖国に帰らない」と心に誓っていたからだそうです。自分のルーツを知りたくて、Cさんはフエに英語教師としてやって来ていました。Cさんが数年フエに滞在している間も、母親の決意は変わることはありませんでした。
ベトナムを離れてもベトナムに残る一族を支援する
ベトナム経済を裏で支える存在として、越僑という海外で暮らすベトナム人たちの存在があります。私の友人の親族は終戦後アメリカに渡りました。コツコツを働き、子どもたちはアメリカの大学を出て何人もが弁護士になりました。写真を見せてもらうと、そこにはハリウッドスターの邸宅かと思うような豪邸が映っていました。ベトナムに残る親族たちは、なかなかお給料のいい仕事に就くことができない現状があり、アメリカの親族たちはあれこれと支援をしてきていました。
「アメリカに来たらいい。看護師の学校に行って看護助手から仕事を始めて貯まったお金をベトナムに送金すればいい。
学費や稼げるようになるまで面倒は見るから」
と、言ってきてみたり、ある時は初老の男性の写真が送られてきて、
「この人と結婚してアメリカに住めばいい。そして、みんなアメリカに来ればいい。」
と言ってきてみたり。アメリカの親族たちは、お金の援助やアメリカに移住する多くの方法の提案をしても、ベトナムに来ることはありませんでした。
色々な形が存在します。市井の人々の残る戦争の影響。それは、語られない限り、見聞きしない限り、記録に残るものではありません。知ったことは伝える、それが戦争の影響を知らせることになるのかもしれない、考えるきっかけになるかもしれない、と思ったりします。
投稿者プロフィール
- ベトナムのフエ市在住歴延べ6年。風人土学舎では、日本の事務局業務とフエ市での活動全般のコーディネーションを担当しています。
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