ベトナムで知った戦争のこと①

8月15日の終戦記念日。平和について考えることも多い日です。今回は、ベトナムに関わり出して知った戦争のことを書きたいと思います。

 

火炎樹、フエ市・ベトナム

 

ベトナムがフランス、アメリカと戦ったベトナム戦争に勝利したのが1975年でした。ベトナムの国土を南北に分けて戦われた戦争は、北ベトナム側の勝利で終わりました。北ベトナム側は現在もベトナムの治めているベトナム共産党と言い換えることができます。

 

10数年前の話であることを前置きします。私がベトナムのフエ市で暮らし始めた時、フエ大学にあるセンターでベトナム人の先生からベトナム語を習っていました。そのセンターは厳密に言うとフエ大学・フエ医科学大学(以下、フエ医科学大学、注1)に属し、アメリカから資金援助を得て設立されたセンターでした。アメリカの戦後賠償の一環であったのだと思います。このセンターには図書館、視聴覚教材及びそれを個別に視聴できる設備が揃っていて、フエ医科学大学の学生を中心に登録料を支払うと利用できるようになっていました。また、外国人にベトナム語を教える部門も併設されていて、私はこの部門に所属するT先生にベトナム語を習っていました。

 

トンネル、フエ省

 

T先生とのレッスンが進んでいく中で、彼女の血縁者は彼女の母親の家族だけを残して全員がアメリカに渡っていることを知りました。このことは、T先生の親族が戦争に負けた南ベトナム側についていたことを示しています。どうして、T先生のお母さん家族だけが残っているのか聞くと、

 

「お墓の世話をしないといけないから」

 

という答えが返ってきました。T先生のお母さんは兄弟・姉妹の一番年下であったため、普通に考えれば「一番長く生き残るだろう」ということでベトナムに残ることになったそうです。どうやってアメリカに渡って行ったか?は、教えてもらっていません。ただ、1975年の終戦直後から、現在のトゥアティエン・フエ省の漁村からはたくさんの人がボートピープルとなってベトナムを出ていったので、そういう手段を選んだのかもしれません。ちなみに、ボートピープルの多くはフィリピン沖で救助された後、香港にあった国連のキャンプに収容されてフランスやアメリカに渡っていきました(とても複雑な話になりますので、ここではこのような簡単な説明で失礼します)。

 

T先生は「私がこのセンターに入ることが出来たのは、外国人専門家のおかげだ」と話してくれました。センター設立に関わったアメリカの団体は、アメリカから多くの専門家をフエに長期滞在させました。建物の設計、書籍や視聴覚教材の管理の方法、語学教育のカリキュラムの選定など、外国人専門家とフエ大学の先生の混成チームで決定されていったそうです。そして、その海外からの専門家たちは、センターのスタッフ採用と運営初期のトレーニングまでを担当して引き上げたとのことでした。そのため、T先生の採用面接はアメリカから来た専門家によって行われたのでした。

 

T先生が採用試験を受けた頃のベトナムでは、提出を求められる書面の中に「1975年当時に親族がどこにいて何をしていたか」を書かされる欄があったといいます。ベトナム人の面接官であった場合、1975年の時点で親族が南ベトナム側のついていたことが明らかなT先生は採用されることは100%なかったと、T先生ご本人が話してくれました。

 

こういった明らかな差別があったベトナム。現在はどうなのでしょう?、マシになっていて欲しいと願っています。この話を聞いているので、ベトナムでの活動で人を雇用する時は、「きちんと人を見て」採用することを心がけています。

 

☆戦争に関係するお話は、あといくつか来週も続きます。今回使用した写真は著者が撮影したものです。☆

[注1]
べトナムの公立大学はアンブレラ方式を採用しているところがほとんどで、日本式に言うと一法人複数単科大学の構成になっています。フエ大学が本部機能を持っていて、その下に医科学大をはじめとする複数の単科大学が構成されています。

投稿者プロフィール

高木佳子(Takagi Yoshiko)
高木佳子(Takagi Yoshiko)風人土学舎 日本事務局担当
ベトナムのフエ市在住歴延べ6年。風人土学舎では、日本の事務局業務とフエ市での活動全般のコーディネーションを担当しています。