ベトナムで知った戦争のこと③

1975年に終わったベトナム戦争は、ベトナムの国土を南北に分けて戦われた戦争でした。軍事境界線は、1954年7月21日のジュネーブ協定によって決められ、ほぼ北緯17度線に沿っていました。私たちが活動しているトゥアティエン・フエ省は、この元軍事境界線よりも南側に位置しています。戦闘で焼き払われてしまって集落もあれば、奇跡的に残った集落もあります。フックティック村は(越語:Làng cổ Phước Tích)は奇跡的に残った方の集落です。昔は窯業が盛んだった村でポツンと昔の姿を留めているような場所です。この村の建造物の修復や窯業復活にも関係したプロジェクトに私たちのナショナルスタッフのティエンさんは関わっていたので、別の機会にティエンさんからこの村のことを書いてもらおうと思います。

 

フック・ティック村1、ベトナム

 

私がこの村に初めて行ったのは修復のためのプロジェクトなどが始めまる前で、たまたまこの村出身の知人に案内をしてもらいました。下の写真は、その時に撮った写真です。平屋の木造のお家がほとんどで、どのお家にも品のいいおばあさんやおじいさんがいらしたことが印象的でした。

 

ク・ティック村2、ベトナム

 

この村に一緒に行った友人たちが何人かいました。そのうちの一人が、アメリカ人女性のCさんでした。彼女のお母さんは戦争後アメリカに渡り白人男性と結婚、Cさんを産みました。そして、Cさんにはベトナムのことを一切教えることはありませんでした。Cさんは、ベトナム料理のことも民族衣装のアオザイのことも、自分の母親からでなくロサンゼルスにあるベトナム人街、リトル・ハノイで知りそして学びました。Cさんが自分のルーツを知るためにボランティア英語教師としてベトナムに来ることを決めた時、彼女のお母さんはCさんを止めませんでしたが、「二度とベトナムの土は踏まない」というお母さん自身の決心に変わりはありませんでした。

二度と祖国の土を踏まないという決意の重さを感じました。

 

ク・ティック村3、ベトナム

 

 

ベトナムにいると、こういった越僑(えっきょう)と呼ばれる海外で暮らすベトナムにルーツのある人たちに出会う時があります。彼らの中には、Cさんのように親は何も教えてくれないため自分で自分のルーツを確認に来た人もいれば、親に積極的に送り出された人や家族で里帰りに来たという人たちもいて背景や心情は様々です。

あと、実際に従軍していたフランス軍やアメリカ軍兵士の家族や子孫が歴史を知るために訪れている場合も多く見かけます。もうひとつ、沖縄を含むアジアにあるアメリカ軍施設に勤務している人たちのグループにも出会ったことがありました。

実際に戦場になった場所に行って平和について考えることはどんな立場の人にとっても尊いことだと思っています。

 

☆戦争に関係するお話は、あといくつか続きます。今回使用した写真は著者が撮影したものです。☆

投稿者プロフィール

高木佳子(Takagi Yoshiko)
高木佳子(Takagi Yoshiko)風人土学舎 日本事務局担当
ベトナムのフエ市在住歴延べ6年。風人土学舎では、日本の事務局業務とフエ市での活動全般のコーディネーションを担当しています。